賢者の仕事、賢者の健康

Vol.15夢があった。目標があった。「オレ、勝たなくちゃいけない」って思ってた
具志堅用高氏 インタビュー(前編)

今回の賢者

PROFILE
元プロボクサー具志堅用高

1955年6月26日、沖縄の石垣島に生まれる。1974年にボクシングでプロデビューし、1976年、プロ入り9戦目となるWBA世界ジュニアフライ級チャンピオンに挑戦し、勝利。世界チャンピオンの座に輝く。以降、日本人最多の世界戦13度防衛を達成した。現役引退後は白井・具志堅スポーツジムを設立し、ジムの会長を務めつつ、タレントとしてもお茶の間の人気者として活躍。2015年6月14日には国際ボクシング殿堂入りも果たした。

各界の一線で活躍するキーパーソンが、「仕事と健康」について語るインタビュー連載「賢者の仕事、賢者の健康」。今回のゲストは元プロボクサーの具志堅用高さん。今ではお茶の間の人気者として親しまれる具志堅さんですが、チャンピオンとしていかに仕事(ボクシング)に向き合っていたのでしょう? 前編では現役時代のお話を中心に。
(聞き手:河尻亨一)

東京に出てきて最初の1年はツラかったね

− 具志堅さんは、この「おれカラ」を読んでくださってるメインの読者層にとってヒーローみたいな存在だと思うんです。例えば私は、具志堅さんがプロデビューされた年(1974年)の生まれです。「ちょっちゅね世代」と言っていいかもしれません(笑)。

具志堅(用高氏 ※以下、具志堅)昭和49年ねえ、そうだなあ。いい年に生まれたね!

− 「いい年」というのは?

具志堅僕が沖縄から東京に出てきた年でしょ? まあ、僕はツラかったけどね、最初の1年間は。東京に全然なじめなくて。沖縄ってまだ外国だと思われてたんだから。そう思うと今は僕の生まれ故郷の石垣島もよくなったね。

いやあ、もう幸せだよ。色んなものがあって、東京と変わらないもの。ほしいもの、何でも手に入るでしょう? オレの時代は本当に大変でした。だから強くなれたんでしょうね。

− そうやってサラッと鋭いことおっしゃるわけですけど、やっぱり関係してくるんでしょうか? モノがないということと、勝つために必要なハングリー精神は。

具志堅我慢強さというのを島で教えてもらったね。食べたいもの、飲みたいものがすぐには手に入らなかった。だって、ないんだもん、ほしくても。靴を買えるのも1年に1回くらいかなあ? あと高校に合格したら自転車が買えるっていう。あれはもう規則みたいなものだったね、島の人にとって。

− 自転車が合格プレゼントなんですか?

具志堅その自転車で学校に通うんです。中学までは歩き、あの時代は。僕なんて家の前、海ですから。白い砂浜が広がっていてね、魚が泳いでいるのが見えた。よくそこで釣りをして、おかずにして食べました。楽しかったよー。だけどやっぱり甘いものがほしくてサトウキビかじってた。石垣は僕の原点ですよ。

− そういう島から東京に出てくるとかなりアウェイですよね? さっき「つらかった」っておっしゃってましたが。

具志堅会話ができなかったね。話題にもついていけなかったし、まず日本語がうまくしゃべれなかった。飯田橋のとんかつ屋に住み込みをさせてもらって、そこで色んなこと学びました。とんかつ屋の大将は剣道家でね、今でも日本武道館で朝稽古されてますけど、この人が素晴らしい方なんですよ。

朝、大将が築地までオートバイで仕入れに行くんだけど、僕はオートバイの後ろから走ってついていくわけ。ボクサーはロードワーク基本ですから。皇居の周りから銀座通りから走ったよー。カラスが追って来てうるさくて(笑)。

− で、帰りは電車で帰ったというエピソードも聞いたことあるんですが(笑)。

具志堅そうなの。走って帰るのいやになっちゃうんだよ(笑)。車の渋滞がすごくて。最初の頃はもう本当にそんな感じ。19歳の時に東京に出てきたんですけど、成人式には沖縄にどうしても帰りたくてさ。でも、1週間後に試合があって、大将から「帰っちゃいけない」って言われたんでアパートで寝てたね。うん、そういう僕の甘いところをしっかりつかんでた、大将は。

同室の人も面白い人でね、オートバイで出前をやってたんだけど、女の話ができないのよ。そういうことに興味なくて。変わってるよねえ?(笑)そういう人と同じ部屋になってさ、夜はすぐ寝ちゃう。そんな毎日だからトレーニングしかすることなくて。僕、チャンピオンになった後も、5回防衛まではそのとんかつ屋さんにいたんですけどね。